1988年夏、中国の名門大学に進学した2人の学生、梁浩遠(りょう・こうえん)と謝志強(しゃ・しきょう)。様々な地方から入学した学生たちと出会うなかで、2人は「愛国」「民主化」「アメリカ」などについて考え、天安門広場に行き着く――。
第139回芥川賞受賞作。
出版社:文藝春秋
日本語以外を母語とする作家ということで、本作が芥川賞を受賞したときにはそれなりに話題になった。
だが中国人作家ということもあり、日本語の文章としては決して美文とは言い難く、どうしてもぎこちなさを感じてしまう。
たとえば冒頭、「突然、頭のてっぺんから、グラスの底のような厚いメガネのレンズを突き通して自分を見つめる父の視線を感じ、ボールペンがまた走り出した」という文章があるが、さすがに表現も比喩もくどいと感じた。せめて文を区切るか、もう少し滑らかで柔らかい表現にすればいいのに、とそういう文章を読むと思ってしまう。
タイトルだって、なぜこんなタイトルをつけたのかよくわからない。どう見ても大仰で、しかも内容と対してつながりが見えない。
しかしそんな硬い文章も読み進めていくうちにさほど気にならなくなっていく。それは単純に物語の筋運びがおもしろく、文章よりもそちらに気が逸れるからであろう。
中国の青年たちの十年以上に渡る物語というのはいかにも時代がかった設定だ。まるで山崎豊子のようである。そういう意味、山田詠美の言うように直木賞向きなのだろう。
その中国人青年の雰囲気が本当にいい。特に冒頭で浩遠と志強が湖で叫ぶシーンや、湖畔で詩を読むシーンなどは最高である。そのいかにも田舎者の行動は瑞々しい印象があり、見ていて微笑ましい気分にさせてくれる。
それが作家の力か、中国東北部という場と時代の力かは知らないが、それを構築しえたという点はすばらしいだろう。
そんな彼らは天安門事件に巻き込まれていく。若者の青臭い思いが簡単に打ち砕かれていく姿はかなりリアリスティックな雰囲気がある。浩遠の父の描写といい、天安門事件での対応といい、国家の前に人の思いが否定されていく姿は悲しい。
そしてさらに心に残るのが、日本に来てからの浩遠の挫折だ。
彼らの青臭い思いも、現実的な行動を取る同じ中国人の前に否定されてしまう流れがリアルだ。「誰だって生活があるんだ。民主だけじゃ生きていけないってことよ」という言葉はありそうな風景で、その意見も正しく、それを否定したいという浩遠の思いも正しい。その思いのどうにもならない感じが僕は好きである。
いろいろ否定する意見が多い作品のようだが、個人的には好きな部類に入る作品かもしれない。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
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